2019年の大学選手権は、

 

絶対王者で9連覇を成し遂げていた帝京が

 

準決勝で天理に敗れてしまいました。

 

 

その敗れた帝京の選手の中に、

 

一人の青年がいました。

 

 

その青年の名前は、小畑健太郎。

 

 

 

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 女子力アップ

 

 

 

 

果てなき試練

今から遡ること45年前、

 

京都市教育委員会から辞令をもらった

 

山口さんは半年前まで

 

ラグビー日本代表のスター選手でした。

 

 

 

ことに1971年のイングランドとの親善試合では

 

双方ノートライに終わる接戦の中で、

 

 

先制のペナルティーキックを決め

 

ラグビー発祥の地である

 

イングランド代表チームを

 

撃破するまであと1歩に迫る

 

快挙の原動力となったのです。

 

 

180cm 90kg 

 

山口さんの迫力溢れるプレーは、

 

 

まぎれもなく

 

全国ラグビー少年の憧れでした。

 

 

ところが、京都市教育委員会から

 

特命を受けて赴任した伏見工業高校は、

 

 

そんな山口さんを歓迎するどころか

 

グランドには誰もおらず、

 

 

校舎の窓ガラスは

 

すべてことごとく割られており、

 

 

ラグビー部の部室は

 

タバコの吸い殻が散乱していました。

 

 

 

半年前までラグビーのスター選手であった

 

山口さんの赴任1日目の初仕事は、

 

 

タバコの吸い殻が散乱する部室の掃除と

 

鋭い眼光から恐ろしく大量の涙を流すことから

 

始まったのでした。

 

 

 

新学期が始まり、

 

校庭や廊下までバイクが走り回り授業中は

 

「帰れ、帰れ」の大合唱、

 

 

教師には、服に火をつけられ、

 

2階から宙づりにされる者までいて、

 

 

荒廃し、秩序もなくでたらめな生徒達、

 

それになすすべもなく立ちすくむ教師達・・・・

 

 

もはやここは教育の現場ではない!と感じました。

 

 

 

放課後、

 

山口さんはラグビー部へと向かいました。

 

 

ところが、このラグビー部こそが

 

不良の温床・悪の巣窟だったのです。

 

 

そして、この日から山口さんの涙と

 

苦闘の教師生活が

 

幕を開けることとなるのです。

 

 

 

山口さんは、

 

伏見工業の教壇に立つことを

 

誘った校長の山本に

 

心の内をぶちまけました。

 

 

 

すると、山本は

 

「教育はマラソンと同じように、

 

最初から全力で走るのではなく

 

長い時間をかけて

 

コツコツとやっていくものです。

 

がんばりましょう」

 

と諭されました。

 

 

 

すると、山口さんは

 

「ラグビーというスポーツは天候に左右されない。

 

雨が降ろうが雪が降ろうが風が吹こうがやる・・・・

 

 

ですが、ただひとつラグビーが成立しない

 

条件があります。

 

 

それは、あの歪んだ

 

ラグビーボールの空気が抜けて

 

へなへなになっていることです。

 

 

校長、お聞きしたい!

 

あなたの歪んだボールたちは

 

空気がパンパンに入っているんでしょうな!?

 

 

すると校長は、

 

「それだけは、自信を持って

 

”はい”と答えることができます!」

 

その返答に山口さんは、

 

 

「わかりました校長、

 

もう泣き言は言いません!」

 

 

 

 

闘い

翌日から山口さんの

 

鉄拳の日々が始まりました。

 

 

雨が降っては練習を休み、

 

少し疲れては部室に戻ってタバコを吸う。

 

 

ラグビーボールを枕に練習中に

 

グランドで居眠りをし、

 

退屈しのぎに下級生をしごく・・・・

 

 

 

そういった者たちに、

 

山口さんは容赦なく

 

鉄拳を加えました。

 

 

私生活についても

 

あれこれうるさく言う山口さんに

 

部員達は猛反発をし、

 

 

山口さんの存在をうっとうしく思い

 

練習をサボるものが増えました。

 

 

ある日の午後、

 

3年生部員が山口さんに

 

話をしに来ました。

 

「監督でも部長でもないあんたに、

 

ごたごた言われたないねん! 

 

 

なんか元日本代表か知らんけど

 

伏見には伏見の伝統があんねや! 

 

 

それを偉そうに口出しされたらかなわんのや! 

 

今後わいらに一切口出しせんといてもらいたいねんッ!」

 

 

山口さんには、

 

3年生の言葉がこたえました。

 

 

 

山口さんには

 

「元全日本代表のエリート教師」

 

と言われるのが何よりつらかったからです。

 

 

福井県の農家に生まれた山口さんは、

 

7歳の時に母親を病気で失ってしまいます。

 

その後継母との折り合いが悪く

 

孤独な少年時代を送りました。

 

 

日本大学ラグビー部では、

 

上級生の理不尽なしごきに反発し

 

中退しました。

 

 

 

山口さんの才能を惜しんだ

 

ラグビー協会の方から

 

日本体育大学への

 

編入を勧められ、

 

 

編入試験を受けて

 

やっと掴んだ日本代表でした。

 

 

 

そんな複雑な過去を持った山口さんを

 

支えてくれたのは、

 

小・中・高・大学とその時々で

 

出会った教師達でした。

 

 

 

考えてみれば、

 

山口さん自身もラグビー部員達と

 

同じ歪んだボールでした。

 

 

 

そんな時、同じく教育委員会から

 

伏見工業の立て直しの特命を受け赴任していた

 

2人の教師に声をかけられました。

 

 

 

そして、この2人から

 

山口さんに伏見工業を京都一に

 

してくれという提案があったのです。

 

 

「伏見の生徒は、

 

現在の生活に目的意識を持てないでいるから、

 

 

将来に繋がる夢を持てないで

 

イライラしているんですと・・・・

 

 

もしうちのラグビー部が京都一になれば、

 

卒業生も在校生も学校に誇りを

 

感じることができる! 

 

 

ラグビー部を

 

京都一にしてください! 

 

 

この学校には誇りが

 

必要なんです!!」

 

 

 

その提案に山口さんは

 

こう思いました。

 

 

「まさに無謀・・・・

 

歪んだボールよ弾め弾め!! 

 

 

そして、どうせ弾むなら

 

日本一の高みにまで弾めと・・・・」

 

 

 

 

走る!!

山口さんは、

 

授業を抜け出し

 

戻ってこない生徒を探していました。

 

 

 

その生徒は、あろうことか雀荘で

 

麻雀をやりながら

 

タバコを吸っていたのです。

 

 

山口さんは、

 

その生徒に鉄拳制裁を加えました。

 

 

そして、こう言ったのです。

 

「おまえらは、わしの子供や・・

 

自分の子を守ってやりたいから手を出せる。

 

 

しばかれた痛みは3日もあれば消えるが、

 

しばいた方の心の痛みは一生消えへんのや!

 

 

わしは手を出した分、

 

とことんおまえらの面倒を見る!!」

 

 

 

もう一人、

 

山口さんを嫌っていた

 

生徒がいました。

 

 

 

その生徒とは、

 

以前教育委員会の仕事で荒れる中学校に

 

派遣されたことがあり、

 

 

その中学で番長だったこの生徒と

 

100m走で勝負をしました。

 

 

この生徒は、短距離・長距離とも

 

今まで誰にも負けたことがなかったのですが

 

元全日本代表の山口さんには当然のごとく

 

勝つことはできませんでした。

 

 

面識があったこの生徒に

 

ラグビー部入部を勧めましたが、

 

 

入学式直後に校内でケンカをし

 

相手に大ケガを負わせました。

 

 

この生徒は、

 

停学になり山口さんは毎日家を訪れ

 

ラグビー部に入部することを勧めました。

 

 

ですが、停学が解けた後も

 

この生徒は山口さんから

 

逃げ回り行方をくらましてしまいました。

 

 

探しに探し回り、

 

ようやく見つけた彼に山口さんはこう言いました。

 

 

「ラグビーも学校も辞めたきゃ辞めろ! 

 

だが、その前に一週間だけオレにくれ! 

 

夏合宿の一週間オレにつき合ってくれんか!」

 

 

 

「夏合宿の一週間だけガマンしたら、

 

このしつこい山口から自分は解放される・・・

 

自由になれる・・・」

 

 

彼はこれでようやく山口さんから

 

逃げられると思いました。

 

 

 

だが、

 

その一週間は想像を絶する地獄でした。

 

 

 

約束の一週間が過ぎた。

 

山口さんは言った。

 

 

「一週間よう頑張ったな!

 

お前が約束を守って合宿に参加してくれたから、

 

オレも約束を守るぞ。

 

もうおまえは自由や!

 

好きにしてええぞ!」と

 

 

 

すると彼は、

 

「あのな・・センセ 

 

オレ初めて発見したことあんねん・・

 

ジェット機や・・

 

 

前は気楽に飛んどるとしか思わんかったけど・・

 

あいつも一生懸命走っとんねんと思ったで・・・

 

 

一生懸命あんな高いとこ走ってる・・

 

オレは地べたやったけど、何かシンパシー感じた・・

 

 

オレ、あんたがうっとーしいて

 

嫌いで逃げたいとずっと思っとった・・

 

 

けど逃げんで逃げ回らんとやってみたら

 

何かあるかもしれん・・

 

 

オレ、学校行くわ、

 

ラグビーもやってみるわ・・・・」

 

 

「やっぱあんた詐欺師や・・」

 

(中学時代100m走で元全日本の山口さんに負けてから、

 

山口さんのことを詐欺師と呼んでいました)。

 

 

 

ついに彼がラグビーをやる気になった。

 

それは、山口さんの”熱血”が通じた一瞬でした。

 

 

 

山口さんの鉄拳の日々は続いていました。

 

 

だが、以前3年生に「口出しするな」と言われてから、

 

合宿には参加しましたがラグビー部では

 

時折1・2年生に教える程度でした。

 

 

遅刻防止のための朝の張り番・家庭訪問など、

 

山口さんは生活指導に力を注いでいました。

 

 

そんな時、授業をサボってタバコを吸っている

 

不良を見つけ注意すると

 

「じゃーかぁしい~おんどれいてもーたろかぁ!」

 

金属バットを振りかざされ肩で受けました。

 

 

そして、こう言いました。

 

「ほぉ、不良やっているが、

 

よく見るときれいな目ぇしとるで・・・」と

 

 

それを見ていたのが、

 

山口さんのクラスの生徒である今井でした。

 

「医者に行って、レントゲン撮った方がええよ!

 

折れてンちゃう?」

 

 

山口さんは、

 

「うるさい、大きなお世話だ! 

 

お前こそ何だ その赤い髪は!」

 

 

 

2人の京都市教育委員会から特命を受けて

 

伏見工業に来た先生達からラグビー部を

 

京都一にすると

 

約束した山口さんでしたが、

 

 

このままでは京都一どころか

 

一勝すらおぼつかないと考え、

 

校長室へと向かいました。

 

 

 

そして、「校長先生お願いがあります! 

 

ラグビー部をわたしにください!!」

 

と申し出たのです。

 

 

 

その申し出に山本校長は、

 

「きみがそう言ってくれるのを待ってましたよ!!」

 

と快諾しました。

 

 

 

昭和50年元旦、

 

山口さんから今井に

 

一通の年賀状が送られてきました。

 

 

 

そこには、「君に頼みたいことがある。

 

ラグビー部のマネージャーをやってもらいたい!!」

 

と書かれてありました。

 

 

こうして伏見工業に赴任して

 

2年目の1975年4月に

 

山口さんがラグビー部の監督に就任しました。

 

 

新生ラグビー部のメンバーの中には、

 

マネージャーとなった今井の姿もありました。

 

 

 

 

伏見工業ラグビー部の産声

新生ラグビー部初練習当日、

 

グランドには山口さんの

 

孤独な姿がありました。

 

 

 

部員達の反発は

 

1年経ってもまだ続いていました。

 

 

 

上級生の指示で部員全員が初練習を

 

ボイコットしたのです。

 

 

 

そんな折、山口さんのもとに

 

当時の大阪の強豪校である大体大浪商から

 

練習試合の話が舞い込みました。

 

 

 

大体大浪商の久保監督は、

 

山口さんの大学の先輩でした。

 

 

「試合となったら少しはあいつらも

 

やる気を見せてくれるだろう」

 

と山口さんは喜んでその話を受け、

 

 

試合当日の朝部員全員の切符を買って

 

待ち合わせの伏見稲荷駅で待っていました。

 

 

「来ないよ、先生・・あいつら」

 

「髪・・黒くしたのか今井・・」

 

「ふん・・だ、あ~あ、もう時間や先生!」

 

 

彼らはまたしても、

 

部員全員示し合わせて

 

ボイコットしたのでした。

 

 

 

山口さんは、

 

試合場に一人で向かいました。

 

 

そして、

 

相手の選手達に頭を下げて謝りました。

 

 

試合後、

 

キックのコーチもしました。

 

 

 

元全日本代表から直々にキックを教えられた

 

高校生達の目は輝いていました。

 

 

 

その後、大体大浪商の久保監督と

 

枚方高校の戸田監督は、

 

山口さんを居酒屋に誘いました。

 

 

「辛抱せぇよ山口・・

 

チームは一年や二年でできるもんやない。

 

お前が辛抱して頑張ったら絶対いいチームができる頑張れ!」

 

と迷惑をかけた両校の監督に励まされ、

 

この日山口さんは涙割りのビールを何杯も飲んだ。

 

 

 

1975年5月新生ラグビー部初の公式戦である

 

春の京都府大会が目の前に迫っており、

 

 

その組み合わせを聞いて

 

山口さんは頭を抱えました。

 

 

 

相手は、1年前全国大会で準優勝し

 

日本中にその名を轟かせた

 

花園高校だったからです。

 

 

 

試合が始まり、

 

伏見工業のキックを花園がキャッチし

 

 

パスを繋いで青と黒のジャージの花園高校が

 

開始わずか40秒でノーホイッスルトライを

 

決めるという

 

ラグビーでは珍しいトライでした。

 

 

その直後にも、

 

花園がまたトライを決め

 

山口さんの顔が紅潮しました。

 

 

 

重戦車のようなスクラム、

 

流れるように速くて正確なパス、

 

何度もスクラムトライを決められました。

 

 

実力の差は、

 

もちろん最初から分かっていました。

 

 

十分な練習もできていなかった。

 

 

練習量だけでなくチームそのものも

 

一つになっていませんでした。

 

 

「だがこの差は何だ・・

 

このあまりにも開いた差は何なんだ・・」

 

山口さんは、怒りと悔しさで顔が火照りました。

 

 

「たしかに相手は名門だった。

 

実力も実績も伏見を圧倒している。

 

チームのまとまり・練習量・全てに勝り歯が立つわけがない。 

 

だが同じ高校生じゃないのか! 

 

おまえたちも同じ人間ではないのか! 

 

おまえたちはそれが悔しくはないのか!!」

 

 

 

後半15分 ついにスコアは80対0になった。 

 

ライン際ギリギリまで出て行って怒りに檄を

 

飛ばしていた山口さんの目に

 

部員達の顔が飛び込んできました。

 

 

 

この時、山口さんの体の奥から

 

こらえきれない感情がこみあげてきました。  

 

 

「こいつらは今どんな気持ちなんや・・」

 

 

「めちゃくちゃにやられて悔しいやろ、歯がゆいやろ・・

 

情けない思いをしているやろ・・」 

 

 

「オレは今までこいつらに何をしてやって来たんや!」

 

 

「偉そうにばっかりいって日本代表だ! 監督だ! 教師だって! 

 

オレは何やってきたんや!!」

 

 

「すまん! 許してくれ! カンニンしてくれ!」

 

 

試合は終わり、

 

112対0と記録的な大敗でした。

 

 

試合後、

 

山口さんは部員全員をサブグランドに集め

 

円陣を作らせました。

 

 

部員達はてっきり山口さんの鉄拳が

 

飛んでくると思っていました。

 

 

 

「お疲れさん! ケガはなかったか?」

 

 

「悔しかったか? 悔しかったやろな・・

 

先生も悔しかった。だが悔しかったことよりも

 

オレは・・おまえたちにちゃんと戦わせてやれんかったことを

 

心からすまないと思っている・・悪かった、許してくれ!」

 

 

「このとおりだ!今までちゃんと指導してなくてこんな

 

悔しい思いをさせたことを謝る!」

 

と頭を下げました。

 

 

 

「112対0か・・・・1点も取れんかった。 

 

どうや、百点も差をつけられて悔しいやろ! 

 

おまえら悔しかったらこのオレを・・・」と言ったとき、

 

 

一人の部員が

 

「先生ッ! オレ悔しいッ! 悔しいんじゃーーッ」

 

と言いながら

 

泣き崩れました。

 

 

それは、雀荘で麻雀をやりながら

 

タバコを吸い山口さんに鉄拳を受け、

 

「お前はわしの子供や・・自分の子を守ってやりたいから手を出せる・・

 

しばかれた痛みは、三日もあれば消えるが

 

しばいた方の心の痛みは一生消えへんのや。 

 

わしは手を出した分とことんお前の面倒を見る」

 

と言われた小畑さんです。

 

 

 

記事の冒頭の帝京大学の小畑健太郎くんは、

 

この小畑さんの息子さんです。

 

 

 

この小畑さんの叫ぶような一言が他の部員達の

 

心の堰を切らせたのです。

 

 

「オレも悔しいッス 先生ーーッ」

 

「オレもやーーッ」

 

「くそったれーーっ」

 

「悔しいでーーっ」

 

「めっちゃ悔しいーーっ」

 

「おおおおーーっ 悔しいーーっ」 

 

全員が泣きました。 

 

 

「悔しいッ 花園に負けたままでは卒業できへんっ」

 

「先生っ 花園に勝たしてくれーーっ」

 

「おおっ よう言うた! 必ず勝たせたるッ 必ずや!!」 

 

 

小畑さんが叫んだ「悔しい」のひと言は、

 

伏見工業高校新生ラグビー部の

 

確かな産声でした。

 

 

 

 

打倒花園を成し遂げるための想像を絶する猛練習

屈辱の112対0・・・

 

花園戦敗退の翌日から

 

想像を絶する猛練習が

 

1年物間続けられました。

 

 

 

伏見稲荷に行かれたことがある方は

 

ご存じかと思いますが、

 

 

夏は暑く、冬は寒い京都

 

凸凹で滑りやすい石段を

 

頂上まで人を担いで何往復もするという

 

常軌を逸した猛練習を1年間、

 

雨の降る日も雪の降る日も関係なく続けたのです。

 

 

登りはもちろんしんどいですが、

 

下りも眼下に京都の町が一望できて

 

違う筋肉を使って転げ落ちないように

 

気をつけながらやらないといけないので、

 

 

普通の人ではとてもじゃないけど

 

できないことです。

 

 

山口さんは、

 

ラグビー部強化のためには

 

 

まず心構えから変える必要があると考え、

 

打倒花園15の約束という

 

取り決めを作りました。

 

 

 

グランドにおいても強化メニューは続き、

 

ある者には人の膝くらいの

 

低いタックルを

 

黙々と繰り返させました。

 

 

重心を低くして強く当たるタックルは、

 

普通の腰のあたりをめがけて行う

 

タックルの数倍疲れます。

 

 

また、筋肉量が乏しい者には

 

黙々とウェートトレーニングをさせました。

 

 

筋肉というのは、

 

限界までいじめても強くならない。

 

 

限界までいじめてその限界を1歩超えて、

 

初めて筋肉は肥大するので

 

限界を1歩超えてから辞めろという

 

厳しいものでした。

 

 

ある者は、正確なキック力を磨くために

 

気が遠くなり、足がつって動かなくなるまで

 

キックさせ、

 

 

ライン・フォーメーションの練習に打ち込み、

 

パスやスピードに磨きをかけました。

 

 

山口さんは必死でした。

 

 

ラグビーは、他のスポーツ以上に

 

チームが気持ちを一つにしなければ

 

勝てないスポーツです。

 

 

どうやったらチームが今以上に

 

気持ちを一つにできるのか? 

 

 

All for one One for all   

 

皆は一人のために一人は皆のために

 

 

山口さんの頭はそのことでいっぱいでした。

 

 

そんな時、喫茶店でタバコを吸っている

 

生徒を見つけました。

 

 

山口さんは、怒りもせず

 

ただボールを蹴り取りに行かせました。

 

 

何十本ものキックを拾い、

 

フラフラになりました。 

 

 

容赦なく次は、

 

「タックルだ! オレが本気で突っ込むから5回止めろ!」

 

と元日本代表の本気のタックルを止めさせました。 

 

 

山口さんは、

 

過酷な練習や生徒を叱った後には

 

必ず晩飯を振る舞いました。 

 

 

そして、タバコのことはひと言も言わず、

 

「しんどかったやろ 食えよ! 

 

伏見工業ラグビー部は京都一を目指す! 

 

だが、中には応援してくれる人たちだけやない。 

 

あんなワルたちが簡単に変わるわけがないという者もおる。 

 

ワシにしても泣いてばっかりの男に何ができるとさんざんや! 

 

だがな、オレはあの時のお前達の叫びを信じる。

 

 

悔しい勝たせてくれと泣いたあの時の気持ちを信じる! 

 

 

オレはお前達を信じる! 

 

 

信じてる者を裏切ったらアカン! 

 

さあ、もっと食え」 

 

小畑さんは、

 

この日からタバコをやめました。

 

 

 

1975年春から夏・秋にかけて

 

ラグビー部は徐々に変わり始めていました。

 

 

そして、それはラグビー部だけではなく、

 

ラグビー部の明るさは校内の話題となり

 

試合のたびに応援にくる生徒の数が増えてきました。

 

 

何かが少しずつ

 

変わりだしてきていました。

 

 

 

1975年11月 

 

あの屈辱的な大敗から半年後のことでした。

 

 

この年の秋の大会 

 

全国大会京都府予選で

 

伏見工業は決勝まで駒を進めました。 

 

 

決勝戦の相手は、

 

宿敵花園高校です。

 

 

 

試合は、

 

55対3で敗れはしたものの

 

 

屈辱的な春の大会に比べると

 

点差が半減し、

 

 

全国大会準優勝のチームから

 

3点を取ることができました。

 

 

 

それは、伏見工業ラグビー部が

 

格段の進歩を遂げていることを

 

意味していました。 

 

 

 

試合後、

 

花園高校のキャプテンが

 

小畑さんに近づいてきてこう言いました。

 

 

「死ぬほど練習したんやろ。来年の対戦が楽しみやな」。

 

小畑さんは、

 

うれしい気持ちがこみ上げてきました。

 

 

 

 

翌1976年、

 

伏見工業に衝撃が走りました。

 

 

その年の春、

 

とんでもない不良が

 

入学していくることになりました。

 

 

夜の街では、

 

“弥栄の清悟”と呼ばれ恐れられていた男・・

 

 

身長180cm 体重90kg 

 

京都中の不良の頂点に君臨していた男で

 

京都一のワルとその名を轟かせていました。

 

 

ラグビー部は、昨年の屈辱を晴らすため

 

春の大会へ向けて修学旅行にも行かず

 

練習をしている・・・・

 

 

 

ようやく落ち着きを取り戻した

 

学校が再び荒れる・・・・

 

 

入学式に臨んだ山本さんは、

 

子分を従え鋭い眼光で周囲の生徒に

 

にらみをきかせました。

 

 

 

山本さんの体格に惚れ込んだ山口さんは、

 

すぐさま山本さんを呼び止め、

 

いきなりこう言いました。

 

 

「おい、清悟 ラグビーをやれ!」 

 

呼び捨てにされ、

 

山本さんはいきり立ちました。 

 

 

「ラグビーなんかするか!」と吐き捨てました。 

 

 

だが山口さんは例によって

 

諦めずにこう返しました。 

 

 

 

「おまえはケンカに自信があるやろ! 

 

ラグビーは、ケンカといっしょや、

 

ボール持ったら払いのけようがぶち当たろうが

 

何してもいいんやで! 

 

 

おまえ、売られたケンカに逃げるんかい?」 

 

 

 

すると、山本さんは「なッ、なんやと! 

 

だッ・・誰が逃げるゆーたッ! 

 

そのケンカ買うたろうーやないかッ!」

 

 

だが練習に出てみると

 

ラグビーはケンカとはほど遠いものでした。

 

 

山本さんは、山口さんに「先生 辞めさせてくれ! 

 

毎日走らされてばかりで オレ ラグビーなんか性に合わん!」

 

と直訴しました。

 

 

 

すると山口さんは、

 

「あかん 辞めさせへんぞ! 

 

おまえはラグビー辞めたらそのうち学校も辞める 

 

そうすると おまえの将来は見えとる! 

 

 

そんなんワシは許さん! 

 

いいか、ラグビー部は絶対に辞めさせへんからな! 

 

試合に出られるようになるまで頑張れ! 

 

試合に出られたらレギュラーを取れるように頑張れ! 

 

そして京都一になったら次は全国や!! 

 

あいつら見たか? 

 

あいつらはお前が知っているただのツッパリとちがう 

 

そのちがいがおまえにもいずれわかるようになる!」

 

と諭されました。

 

 

 

遠征先の名古屋でのことでした。

 

 

休憩時間に山本さんは、

 

ひとりでパンをかじっていました。

 

 

幼い頃両親が離婚し、

 

山本さんは父子家庭だったのです。

 

 

そんな時、「これを食べろ清悟・・おまえにと

 

ワシの女房が作った弁当だ」巨大な握り飯と

 

巨大な弁当を山口さんが山本さんに差し出しました。 

 

 

山本さんは、

 

この心遣いが滅茶苦茶うれしかったのです。

 

 

 

その後、ラグビーを辞めよう・

 

学校を辞めようと思うたびに

 

この弁当のことが心の支えになって

 

踏みとどまりました。

 

 

そして、この一件以来目の色を変えて

 

ラグビーに打ち込むようになりました。

 

 

ラグビーのセンスは、

 

山口さんの想像をはるかに超えていました。

 

 

ラグビーを始めて、たった8か月で

 

1年生ながら高校全日本代表に選出されたのです!!

 

 

 

またこの日以来、

 

山口さんが言った”ただのツッパリとはちがう”ということを

 

ずっと考え続けるようになりました。

 

 

 

1976年春の京都府大会が目前に迫ってきて、

 

練習は更に激しさを増しました。

 

 

3年生になった小畑さん達にとって

 

京都一を目指す最後のシーズンでした。

 

 

 

そして、春の京都府大会が始まりました。

 

伏見工業は快進撃を続けました。

 

 

そして決勝進出を果たし

 

決勝戦は激しい雨になり

 

 

相手は一年前112対0で負けた

 

あの花園高校でした。

 

 

スタンド席には、1年前と違い

 

大勢の伏見工業の生徒達が詰めかけていた。 

 

雨は強く降り続いていた。 

 

 

山口さんは、

 

試合前選手にあるプリントを配りました。

 

 

 

そこには、「新しい歴史の創造者たれ」

 

と書かれてありました。

 

 

試合が始まり、

 

伏見工業は一気に攻め込みました。

 

 

花園がたじろいだとこが

 

はっきりわかりました。

 

 

1年前、圧倒されていたスクラムは

 

互角になっていました。

 

 

「必勝の心構え」のプリントには、

 

「捨て身のタックル」に二重線が引かれており、

 

それが花園の攻撃を食い止めました。

 

 

 

「勝ちたい、昨年の約束通りどんなことをしても

 

勝ちたいんじゃーーっ」ただ花園に勝つことだけを

 

信じてひた走る小畑さんの突進に皆度肝を抜かれました。

 

 

 

残り5分 得点は12対12の同点でした。

 

「攻めて攻めて攻め倒せ!!」

 

と15人全員が攻めました。

 

 

トライが決まり、18対12となり

 

ノーサイドのホイッスルが鳴り

 

伏見工業が優勝したのです。

 

 

こうしてツッパリ達のどうしようもなかった

 

ラグビーチームがたった一年で京都一に

 

上り詰めたのです。

 

 

素晴らしいと感じたことは、

 

112対0で花園に負けた時に山口さんは

 

生徒に対して一言も怒らず、

 

 

その怒りを自分に向けた

 

ということです。

 

 

「ご苦労さん! ケガはなかったか? 

 

苦しかったやろな、辛かったやろな!」

 

 

「今までオレは、全日本だ監督だと言って

 

満足にラグビーを教えてやれなくて、

 

こんな惨めな思いをさせて済まない!!」

 

と生徒に頭を下げるということは

 

山口さんだからこそ

 

できたことなのではないでしょうか?

 

 

 

そして、それに対して心の堰を切ったように

 

小畑さんをはじめとして全員が悔しいといって

 

泣き崩れるといったことも、

 

 

山口さんの気持ちを汲み取る力が

 

各々の生徒にあったからに他なりません。

 

 

そして、口だけで終わらせず

 

常軌を逸した猛練習を一年もの間休むことなく

 

毎日繰り返し花園に雪辱を果たしたということは、

 

自分の人生の糧となり自信へと繋がります。

 

 

 

山口さんが生徒達に教えたかったことは、

 

ただ一つ 

 

人はいつでも変わることができる

 

ということなのです。

 

 

 

山口さんの教えを

 

小畑さんが受け継ぎ、

 

 

その教えを小畑さんの子供である

 

健太郎くんが受け継いで、

 

 

伏見工業から京都工学院へと

 

校名は変わっても山口イズムは

 

継承され続けています!!

 

 

 

準決勝で天理に負けた時、

 

小畑さんは息子さんに

 

「負けを知らない人間に勝利はない」

 

と話されたそうです。

 

 

そして、これはオレの言葉じゃない

 

オヤジさん(山口さん)の言葉やでと言われたそうです。

 

 

健太郎くんは、

 

この言葉を胸に10連覇を果たせなかった悔しさを晴らすため、

 

次のステージ目指して頑張っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スキマスイッチ ハナツ